「我思う故に我あり」の意味って?反論も含めてザックリ解説するぞ

月の満ち欠け

こんにちは。テルクニです。

今回のテーマは「我思う故に我あり」という有名なデカルトの言葉。

言葉自体はとても有名ですが、ちゃんと意味を知っている方は少ないと思うんですよね。僕自身大学の授業で勉強したのですが、忘れていました…笑

そこで今回はこの言葉の意味や反論まで含めて、哲学嫌いな方でもわかるようにザックリと解説します。

 

 

※本当に詳しい内容を知りたい方はwikiなどを見てね。

 

「我思う故に我あり」の意味とは

最初にこの言葉の意味を説明してしまうと、「私が思っている以上、私が存在することは明白である」という意味。

でも、これなら小学生でも言えそうですよね。そこは天才と呼ばれているデカルトですから、やっぱり理由があるのです。

 

私たちはすべてのものを疑うことができます

目の前にあるコップも実は存在しないかもしれないし、横にいる友人も本当はいないかもしれません。自分の後ろの風景も本当は存在していなくて、自分が見た瞬間に作られているかも…

などなど私たちは身の回りにあるあらゆる事象を疑うことができるのです。

 

デカルトも同じように身の回りのことや考えを疑っていったんですよね。「いやいや、なにか確かなものがあるはずだ!」と彼は考えていました。

そこで見つけたのが「疑っている自分」でした。

どんなに目の前の存在が疑わしくても、それを疑っている自分は常に存在する。その自分を疑ってもやっぱり疑っている自分は存在するのです。

 

そのことに気づいたデカルトは「やった!周りがどんなに疑わしくてもこれで疑いえないものが存在するぞ!」と喜んだことでしょう。

そして、「私が思う(疑う)私は常に存在する」ということで「我思う故に我あり」という言葉を残しているのです。

 

「我思う故に我あり」への反論

さて、この話を聞いて皆さんはどう思うでしょうか。

「確かにそうだな」と思う方もいますが、「何かモヤモヤする…」という方もいるかもしれませんね。実はこの言葉は正しいと言い切ることができません

 

それを説明するためには「公理」というものを理解しておく必要があります。公理と言うのは数学でおなじみのものですね。辞書を引くと以下のように載っています。

こう‐り【公理】
1 一般に通用する道理。
2 数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。
3 自明であると否とを問わず、ある理論の前提となる仮定。

(引用:小学館 デジタル大辞泉

簡単に言えば、だれが見ても正しいと思えることを公理と言います。例えば数学だったら「2つの平行線は決して交わらない」というのは公理にあたります。

そして、あらゆる命題(理論)には出発点となる公理、つまり「誰が見ても正しいもの」が必要になってきます

 

デカルト自身も数学者であったため、哲学の世界にもこの「公理」から出発するべきだと思っていたのでしょう。そこで先ほどの「我思う故に我あり」つまり「疑えない自分」というのを哲学の第一原理に据えようと考えたのです。

 

デカルトの限界

しかし、デカルトの限界もまたここにありました。

「我思う故に我あり」に先行して、正しいと考えないといけない前提がありました。それは「私が思うなら私は存在する」というものです。

「私が思うなら私は存在する」ことが正しいならば、「我思う故に我あり」は正しいと言えますが、デカルトは前半の「私が思うなら私は存在する」ことを自明のものと考えているのです。

 

…段々とややこしくなってきましたね笑

これは3段論法として捉えるとわかりやすいかもしれません。

  1. 私は思うならば私は存在する
  2. 私は思う
  3. よって私は存在する

デカルトは2と3の説明をしていますが、1については触れていないのです。もし1が正しいなら3は成り立ちますが、1の「私が思うならば私は存在する」ということは公理として、誰にとっても自明のこととして考えてもいいのでしょうか

 

 

そんなことはないですよね。

だって、そもそも「私」というのが何なのかよくわからないですし、「疑っている自分」だって何者かにプログラミングされただけかもしれません。

よって「私が思うならば私は存在する」とハッキリ言い切ることができないのです。

 

前提がハッキリしない以上、結論はハッキリしません。ここにデカルトの限界があるのです。

 

感想

今回はなんだかデカルト批判になってしまった感じですが、彼は偉大な哲学者だと思います。そもそも哲学の歴史は先人の議論のまずい点を批判し、それを克服するという歴史。デカルトの考えも後のヒュームに始まりあらゆる哲学者に受け継がれています。

 

しかも僕たちもデカルトと同じ間違いを犯しがちだと思います。

彼は公理に踊らされた形になりましたが、僕らが当たり前だって思っている前提も実は当たり前じゃなかったりします

例を挙げるなら先ほど言った「平行線は交わらない」という公理も、ユークリッド幾何学に限定した話であって、球面においては成り立ちません。

 

そんな具合に本当に当たり前だと思っていることが嘘なんじゃないか、そして自分の行動もすべて間違っている可能性があるのです。…怖いですよね。

僕たちにできることは知見を広めて、時折立ち止まって考えてみる事のみ。ありきたりな結論ですが、どれだけこのことを深く自覚できるかが大事なんだと思います。